緑の時のBookend

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ユング自伝 1―思い出・夢・思想
ガイドとか守護霊などという言葉は使っていませんが、
ユングは子供の頃からそういう存在たちと対話してきた人だったようです。

 私は考えを自分がつくりだしたかのように扱うけれど、
 彼の観点からすれば、
 考えは森の中の動物や、部屋の中にいる人々や、
 空中にいる鳥のようなものであると彼は言った。
 そして、彼は
 「あなたが部屋の中にいる人々をみたとき、
  あなたがその人々をつくったとか、
  あなたが彼らに対して責任があるとか思わないだろう」
 とつけ加えた。
 心の存在の客観性、心の現実性について教えてくれたのは彼である。

ユング自伝 1―思い出・夢・思想カール・グスタフ・ユング アニエラ・ヤッフェ 4622023296


とっても、読みづらい本でした。
文章がわかりにくいし、内容もわかりにくいし・・・。
何より、私が圧倒的に知識不足だし。
それでも、心に留まる箇所があちこちにあって、
ユングの表したことを知りたい、理解したいと思う気持ちに変わりありません。
そう思うようになったきっかけは、
半年ほど前からコツコツと心理学の勉強を始めたことでした。
とても面白く、と同時に退屈な面もあったり。
そして、心理学者をはじめとした研究者たちを知るにつれ、
やはり一番気になったのはユングだったのです。

心理学は「実践の科学」なのだとか。
科学であるなら、上書き・更新され進化していく学問になります。
心理学の大家たちの中には、
その研究の基礎を築いた…などと偉業を認められつつも、
すっかり過去の人(知識)になっている人も見受けられます。
でも、ユングの場合は、もちろん魅かれる人にとってはですけど、
今の私が必要とする人(知識)です。

と、いうわけで。
引用文に出てきた「彼」というのは、
ユングが「フィレモン」と名付けた存在です。
空想で彼と話した、とか表現してたりして何とも学者らしい・・・
というか、当時は今以上に制限のある時代だったのでしょうし。
で。
子供の頃から見えない世界と接点があり、
老賢者とか、複数のガイドからの叡智を受け取ってきたユング。
ユングは人生の歩みを「個性化のプロセス」を進めること、と言っています。
まさに、「個性化のプロセス」において、多かれ少なかれ人は苦しみ、
もがいた挙句に病んでしまう人もいるんですよね。
危険を伴う、と。
この本にもそんな記述がありました。
ユング自身にも危機があったようですが、
かと言って、それを避けることが賢明な生き方なはずはありません。

 人が個性化過程を歩むときには、
 つまり自分自身のいのちを生きるときには、
 人は付加的に誤りを侵さなければならない。
 いのちというものは、
 この誤謬の付加なしには完全とならないだろう。

ユング自伝 2―思い出・夢・思想カール・グスタフ・ユング アニエラ・ヤッフェ 462202330X



そうそう、素敵な言葉があったのです。

 植物ができる限り成長し、
 動物ができる限り食物を探したりするように、
 夢は、できるかぎり何かを表現するのである。


ああ・・・そうだった。
夢記録を付けていて、嫌気がさすときがあるのです。
ついつい、「つまんない夢だった〜」とか。
「わけわかんない、どうでもいいや」と、記録しない時もあります。
夢は無意識の直接の代表者だというユングの言葉に、
植物や動物を愛でるように「応えなきゃ!」と思いを新たにしたのでした。

この本、読み始めてすぐ私には無理みたいとか思ったりしたのですが、
出会いには、必ず得るものがあるんですね・・・。

CM(0) / TB(0)
「メギドの火」Mana
メギドの火
Mana
4434193414

図書館に入荷しているのに気が付いて借りようかなあと思いつつ、
何故かタイミングが合わず一年以上が経過していました。
貸し出し中だったから、というのがほとんどですが、
一度だけ本棚で見掛けた時もあったのです。
半年以上前のことでした。
今じゃない・・・という気がして、手に取ることさえできませんでした。
そして、今回、読む時がきたわけです。

著者の本は、「空」3作シリーズのうち、2冊目まで読んだことがあり、
ブログも読み続けているのでなんとなく内容はわかっていたのです。
しかし、読み始めてすぐに、
今これを読むべきであるのだ、ということが腑に落ちたのでした。
要するに、知っているはずのスピリチュアルな知識を
また一つのアプローチで畳み掛けるように諭された・・・ということなのでした。
時期などのタイミングを計り、表現を変え、
わかっていない(実践できていない)私に・・・有り難いことです。
(※ガイドさん、いつもありがと〜!
   微かでもがんばって受け取りますから今後ともよろしく!)

夢中でノートを取りました。
7ページ半。
ブログ記事として読んだ記憶が蘇る部分もありましたが、
パソコンの画面の文章よりも本で読む方が断然いいです。
また、読んだ本のポイント部分をノートに取るようになったのが3年ほど前のこと。
当初はそのまま書き写していましたが、
今はあっさりと自分の言葉に変えたり、自分の解釈を書いたりもします。
何の為に読書ノートを取っているのか?
学びを自分のものにするためですから。

さて。
ちょこっと引用します。

強いエゴ、強い欲、強い意志、そこから迷いなく全ての事柄を体験したならば、
そのあとには何の未練も執着も残らない。


これは、〜あんなに好きだったのに、あんなに執着していたのに、
その熱が冷めてしまった・・・・〜
という体験などで、よくわかりますね。
そして・・・・

どこまでいってもエゴはますます強くなるばかり。
どこまでいってもキリがないエゴに、そろそろ気づくときではないでしょうか?


と、いうことにはすでに中途半端に気が付いてたりして。
その中途半端が心地悪い・・・と、よく思います。
抑圧しているような?
いや、エゴ自体を抑圧しているのではなく、
それって本当はいらないけど、周りに合わせとかないと逆に面倒だし…みたいな。
結局、いつも周りとの関係性が自分の中で問題になってしまう、
ということに行き着いてしまう感じがします。
表面的に付き合ってあげる、というのも有りで・・・とわかりつつも、
特に言葉のやり取りなどにはついつい引きずられちゃったり。
きりがないくらい日常の人付き合いの中でいろいろありますから。
そのいろいろに反応してしまう自分の「思考」によって、
振り回わされてしまうのだと・・・。
不安で自信のない思考によって、ジャッジしてしまうのでしょうね。

よく「思考」を捕まえない。
といいますが、この本にはこんな表現がありました。
〜(自分が)思考のあいだを通過する〜
これは、自己の中心と繋がっていてこそできること。
センタリング、ですね。
・・・・私、一度もしたことないかも?です。
実は、今年に入ってから、ますます雑念に捕らわれる状態が酷くなってます。
もともと集中力に欠け、気が散りやすい方ではあるんですが、
自分でもこれは酷すぎると感じるくらいに、気が散りっぱなし。
家事などやっていても、小さなミスなどにはっとする毎日なんです・・・。
なんか最近になって、訓練されているんじゃないかという気がしてきました。
以前書いたように、強烈にネガティブな妄想からはかなり解放されたのですが、
今度はちまちまとした妄想に振り回されてます・・・・
それも決して心地良いものではありません。
それを責めることなく、かわしていく、気づいていくだけでいいのだ、と。
そうなれるまでの訓練かなあ?と。

ところで、この一週間は、一体なんだったんだろうと思います。
毎日のように意味深な不思議な夢を見たり幽体離脱などもあり、
今日などは朝から風邪みたいなわけのわからぬ体調不良状態でした。
パソコンを開くのもイヤだったのですが、本の返却が迫っているので、
後に記事にできるようメモ程度に下書きするつもりが、
こうして書いているうちに背中の重みも吐き気も治りすっきりしてしまいました。

さらに、この記事を書き掛けている途中にはもう一つ出来事がありました。
いつも、後でメモすべき箇所に付箋を付けながら本を読むのですが、
この本は読みながらしょっちゅう付箋を付けてしまうので、
3、40ページずつを区切りにしてノートを取り、付箋をはずしていたのです。
ところが、一片の付箋だけがポツンとずっと残っていました。
気が付いてはいたのですが、私は何とも思わずそのままにしていたのです。
ついさっき、なんとなくそれが目に付いて、
取り忘れだろうなあと思いながらはずそうとしました。
なんとなく、その箇所の文章にも目がいって・・・・
(ああ、そっか〜、うん、うん。)
と、読みながら改めて感心して、ふと、
(これ、ちゃんと書いたよね?私…)
と、思ったのです。
一応、確認しようとノートを見てみると、
なんと!どこにも書いてない !!
びっくりしました。
ウッと、胸をつかれた感覚があり、これはサインだとわかったのです。
付箋の取り忘れではなく、メモをし忘れていた・・・・
どっちにしろ何の意味もないミス?
・・・ではないのは、私だけがわかることです。はっきりと。
その箇所を引用します。

虚空の中から永久に無限に生まれ続けることができるのは
メギドの火だけであり、
他の波動なったものは虚空の愛の中へ吸収されてしまいます。
恐れの波動も、不安の波動も、虚空に消える運命にあり、
虚空には勝てないということです。


私達の本体は、体ではなく「意識」の方ですが、
その観察している「意識」とは、
無限の愛の拡がりの宇宙空間、「虚空」である、と。
虚空から生み出されるいのちの火を「メギドの火」と呼ぶ。
メギドの火(というエネルギー)は、
重荷となって快楽(浪費、中毒、逃避行動)で捨てられるか、
愛の創造性となって調和的に活用されるかのどちらかなのだ、と。
自分の内側の最奥にある「観察する意識」=「虚空」、
それを知ることを邪魔する分厚いエゴの壁・・・・
その最たるものが、「恐れの波動、不安の波動」なんだと、
本を読み終えた最後に念を押された、と思いました。
私には、必要なことだったのです。

2012年夏に「空(くう) 舞い降りた神秘の暗号」を読んだ時、
私は自分の内面に長いこと抱えてきた思いを綴ってしまっています。

「心の声と向き合う」

あれから3年半が過ぎた今は比べ物にならないくらいに心が軽くなりました。
でも、母や姉に対する嫌悪感や罪悪感、自己憐憫などなどのエネルギーが、
すっかり生み出されなくなったというわけではありません。
だから、エネルギー保存の法則とかって、
自分が生み出してしまったネガティブエネルギーの行方に怯える気持ちもあるし、
ガイドさんや大いなる宇宙の力(?)にすべてお任せすれば大丈夫〜♪と、
100%信じることもできていないのです。

〜恐れの波動も、不安の波動も、虚空に消える運命にあり、
  虚空には勝てない〜

なんて力強い表現でしょう。
そして、なんて温かく優しい言葉なのだろうと思います。
これが、今回この本から私が受け取るべき一番のメッセージだったのです。

ノート7ページ半に渡って長々と書いたメモ。
そのすべては、まとめて短い文章に置き換えることが可能だと思います。
スピリチュアルな真理はシンプルなものですから。
それでも、私は長々と(!)諭される(?)ことを必要としたのでした。

他に類を見ない(私の知る限りでは)個性的で豊かな表現力と切り口で。

(※実は、2012年の私は「空」2冊目には少々ウンザリ感を覚えたり、
  Manaさんのブログもついていけなくて離れようとしたことがあったのです。
  でも、結局、今に至る、のでした。)
CM(0) / TB(0)
「第六感 ひらめきと直感のチャンネルを開く方法」「あなたのガイドに願いましょう―聖なるサポートシステムにつながる方法」
第六感 ひらめきと直感のチャンネルを開く方法ソニア・ショケット 奥野 節子 4478910367

あなたのガイドに願いましょう―聖なるサポートシステムにつながる方法ソニア・ショケット 奥野 節子 4478000603


「第六感 ひらめきと直感のチャンネルを開く方法」は、
できるなら手元に置いておきたい本だなあと思いました。
繰り返し、繰り返し、心に刻んでおきたいことが満載です。
どれもこれも文章としてはわかりやすいけれど、実践となると?
どれもこれも日常の習慣にないことばかりで、
自分で書いたメモさえも読み返したすぐそばから忘れていく・・・
ノートを閉じると、何も心に刻めてない、みたいな。
自分の(顕在)意識が「第六感」に馴染みがないってことだと思います。
つまり、意識が重い波動の「五感」に引き付けられて、
軽く微かな波動の「第六感」をキャッチする隙もない、ということなのでしょう。

 〜人生の心配ばかりをしているのが五感型〜
 〜宇宙が助けてくれることを知っているのが第六感型〜


だそうです。
私、強力な五感型だ〜!
それでも、たまには「ひらめき」に従うこともあるにはあります。
まだまだ・・・たまにですけど。

 〜心がどう言おうと、ハイアーセルフだけに従うよう潜在意識に命令する〜


第六感はハイアーセルフから降りてくるってことですね。
「潜在意識に命令する」って、命令するのは顕在意識なのだから、
まずは顕在意識の方が問題かと。

「あなたのガイドに願いましょう」にこんなことが書かれていました。

 〜ガイドの仕事は、ハイアーセルフに私たちをつなげること〜


私の顕在意識は、エゴは、何かとザワザワして邪魔してくるのです。
そんな時は、
「落ち着かせよう!
 ガイドさんに力を貸してもらえば百人力!」
と、もっと頼んでもいいんだなあと気が付きました。
意外に助けを求めてないのです。
エゴがハイアーセルフと繋がりたくない、繋がることを恐れているから。
まあ、ガイドさんと直接コンタクトできなくて馴染みがないというのもありますが、
それも言い訳にするエゴの巧みさ。
「依存」を恐れてみたりとかも。
やっぱり自分の方がブロックしてる!と痛感しました。
繰り返し書きます。

私のエゴが、ハイアーセルフと繋がることを恐れている。
だから、ガイドさんに助けを求めたり、祈ったりすることを阻止したがる。

ふ〜ん・・・なんとなく気が付いていたことだけど、しっかり注目しときます。

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「食べない人たち (「不食」が人を健康にする)」「不食実践ノート―食べずに暮らす人たちの記録」
高校生の頃。
6時に起床し、カフェオレでトースト1枚を流し込むようにして食べる、
と、いうのが毎日の朝食でした。
寝不足も多かったし、食欲などないのですが、
食べないとお昼までとてももたないのでそうするしかありませんでした。
同級生の一人に、いつも朝食抜きの友人がいたのですが、
全く平気みたいで不思議でした。
今も付き合いのある彼女は、ずっと朝食は取らない人です。
たぶん「朝食は食べた方がいいんだよ〜」と言ったこともあったと思います。
「どうしても食べれない」みたいなことを聞いた覚えがありますから。

彼女については、その高校生の頃から「丈夫な人」というイメージがあります。
特にスポーツなどもやっていなかったのですが、
わりと体力があって風邪をひくなど体調を崩すことがほとんどありません。
今も、元気に体力のいる立ちっ放しのパートを続けている主婦です。

「朝食は摂らなければいけない」
というのが、ずっと常識だと信じておりました。
「朝食は抜いた方がいい」という説を知ったのは、何年前だったでしょうか?
たぶん、5、6年前、ネットの情報だったと思います。
それも、スピリチュアル系のサイトだったような?
続いて、「食べない人たち」がいる、ということも知って興味を感じたのですが、
後回し・・・にしてほとんど調べたりもしていませんでした。

ただ、「食事を減らす」ことは実践したいという強い思いがあったのです。
一番の理由は、10年近く前から逆流性食道炎の持病があったこと。
いわゆる腹八分目とか六分目とかにすれば、随分軽く楽になれそうな気がしたのです。

一方で、自分は比較的食の細い方であると意識していて、
甘い物好きでも摂取量は少ないし「これ以上減らすなんて〜」とも思っていました。
でも、「比較的食の細い方」といっても、それは今の日本人の食生活との比較ですし、
私、ちょっと間違っているなあというのも気が付いてはいたのです。
自分の身体にとっては、「食事を減らす」方がいいに違いない、と。
なのに、他の人と同じように食べなければ、とか、
家族のためにもう一品作らなければ、とか、
余ったのもったいないから食べなければ、とか、
まあ・・・食べたくなくても食べることの多いこと!

そして、今年6月、「石原式健康法」に出会い・・・
ついに、今回は「不食」の本です。

 がまんがあったら、それは不食ではありません。

食べない人たち (「不食」が人を健康にする)秋山 佳胤 森 美智代 山田 鷹夫 4837672140

引用したのは、この方の言葉です。
   ↓

不食実践ノート―食べずに暮らす人たちの記録山田 鷹夫 4883203514
大食時は、水中の魚の生活である。
食べる量が多いほど深い水中であり、少ないほど水面に近い感じである。
人間はその中で食物に支配され、ふり回されている。
しかも、そのことにまったく気がつかないで生きている。
その水中の魚が、空を飛ぶ鳥の生活など想像もつかないであろう。


めいっぱいスピリチュアルです。
世間一般に受け入れられるはずがありません。
「いやいや、お肉バクバク食べてる大食いなスピリチュアリストもいるでしょ!」
誰のこと?
って、それはいいとして。
多種多様は当たり前ですよ。
ただ、その方も確かこうおっしゃってました。(だから誰?)
お肉食べたかったら食べていいんです、進化の度合いは人それぞれですから。

定義があるわけではないようですが、おおまかに言うと、

「少食」=一日一食、もしくは一食+微食
「微食」=一食よりさらに少ない量の食事
「不食」=食事は摂らない

不食といっても、飲み物は摂る人、飲み物も摂らない人まで様々なようですが、
とにかく「食べなくても生きていける」がポイントです。
何故か?
それは本に書いてありますが、記事に書く気にはなれません。
説明されても頭で納得するようなことではないからです。
スピリチュアルなことと同じ!
受け入れられる人と、受け入れない人がいるということです。
別に良くも悪くもなく。
どうしても、身体、健康のこととなると「良い、悪い」に捕らわれがちですからね。
突っ込みを掛けてくる人と、議論などすることではない、と。

本当は、健康になりたければ、
ただただ、自分の身体に聞いてみる、ということに尽きるのだと思います。
身体もまた、一人一人に個性があり、
さらには意識、特に潜在意識の影響が大きいということについては、
自分で向き合うしかありませんし。
他の誰の言葉が自分にとって参考になるか?も、結局自分の感覚です。

私の場合は、身体の疲れや不快感などがきっかけで食を減らそうと思い、
それは一般的な栄養学・医学とはズレるけれども、
自分の感覚の方を信じるのが当たり前のことで迷いもありません。
ただ、今までのことを振り返ったとき、
正直、「私はとても元気です♪」と言えるようになるのか?と自信はないんです。
こびりついているんでしょうね。潜在意識に。
子供の頃からの、他の人より体力がないとかすぐ風邪ひくとかの思い込みが。
常にどこか不調な感覚があって、時に重くなったり。それが私、みたいな。
今も抱える重い感情、思考・・・の影響も恐れていたり。
「私には元気ハツラツになる資格がない」などという、
とんでもない縛りを掛けている気配さえします。

と、なんだかどんより・・・してますが。
これが「向き合う、無視しない」ということなんだと思います。
こういう風に、暗〜い、重〜い部分も書ける自分だからこそ、
ふと「大丈夫」との思いも湧いてくるのです。

それにしても・・・
周りとの兼ね合いが難しいですね。
基本は、受け入れるということで、
自分の方が「寛容さ」を示していくことなのだと思います。
娘が買ってきたケーキはいただく、と。
でも、無理はしないで「お腹一杯だから半分あげるわ〜」とか。
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「投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待」
この宇宙は、巨大な「ホログラフィック・ユニバース」・・・・
つまり、この世界すべてが「3D立体映像」なのだ〜!と言われて、
「ハイハイ、すべては幻想ですもんね!」
と、さらっと受け入れてしまえる私は、スピ歴・・・早10年目に入ろうとしています。

世界を断片に分け、
すべてのものの間にあるダイナミックな相互結合性を無視するという、
人類にほぼ共通する傾向にこそ、
科学にかぎらず私たちの生活や社会が抱える問題の原因がある
というのがボームの考えだ。

投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待マイケル タルボット 川瀬 勝 4393366247
その著作の中でボームは、
世界を断片に分けるという現在のやり方は、
うまくいかないどころか、私たちを絶滅に導いてしまう可能性さえある
と強く主張しているのである。


デイヴィッド・ボームは、アインシュタインの弟子でもある量子物理学者です。

著者は、生まれながらにサイキックな能力を持っており、
いわゆる超常現象と科学の関係について疑問を持ち、研究をした人でした。
そして、「宇宙のホログラフィックな本質」に確信をもつに至った二人の科学者に注目したのでした。
その一人がボームで、もう一人が神経生理学者であるカール・プリブラム。
それぞれ違う分野から、同じ結論に達したわけです。

「はじめに」の中で、著者はこの二人の卓越した人間性を示す
エピソードを取り上げています。
「ホログラフィック仮説」に重みを与えているのは、
彼らの業績と人格だけでなく、その強い意志と勇気なのだ、と。
強い意志と勇気!
科学者だけでなく、専門家と呼ばれる人にこれが欠けていると・・・
多くの人が多大な迷惑をこうむることになりますからね。
シンプルな真理です。

さて。
この本は、この二人の科学者の「ホログラム理論」を土台に、内容が盛りだくさん!
私は理科が大の苦手なのですが、ちゃんと読めました。
また、これまで培ってきた精神世界の知識が役に立った、というか、
そのすでに知っていることを別のアプローチで腑に落とさせてもらった、
と言ってもいいかもしれません。
どこをを引き出そうか迷ってしまい、きりがないので一つだけ。

ボームによると、
〜思考は渦巻のようなもの〜
だと。
で、精神科医・デイヴィッド・シェインバーグはこの考えを肯定し、
〜私たちの価値観や信念がなぜ固定化し
  変化に抵抗するようになるかもこれで説明ができる〜

というのです。何故なら、
〜渦巻というものは驚くほど安定している場合がよくある〜
のだとか。
「固まりきった思考の渦巻」
確かに、あっちもこっちも醜悪な渦巻きだらけ・・・・
イメージすると、ぞっとするものがあります。
これって、地球の特徴?重力のせい?
といいたくなります。
が、地上だけじゃないか。
この現実と、次のレベルの現実(つまり死後世界)のちがいは、
どちらもホログラム状の構造物であるが、

私たちの現実は、死後の世界の固体版のように見えるのである。


身体などの「固体」に対する観念、
つまり、目に見えるすべての固体を客観的実在だとみる確信について
異を唱えるなど普通は無駄なことだと思います。
「そうではない!」と、それこそ確信するようになった私でさえも、
その観念に捕らわれている無意識がありますから。

では何故、この本の著者や、あらゆる分野の専門家達が勇気を出してまでも、
さらには私や、多くの名も無き一般人たちが面倒にもかかわらず、
一般的常識に抵抗を試みている(?!)のでしょうか。

その答えが、最初の方で、本の紹介と共に引用した文章なのだと思います。
自覚がない人でも必ず心の奥に存在しているはずのものです。

〜 世界を断片に分ける・・・ 〜
そんな「捕らわれ」で物事を、誰かを、そして自分をみていないか?
無意識に。

すべての物がホログラフィック、幻、錯覚なのであれば、

ホログラフィック・ユニヴァースは、人間の心の力によって、
ほとんど無限と言ってもいいほどありとあらゆる形に変容しうるのである。



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「神との友情〈下〉」ニール・ドナルド・ウォルシュ
「あなたがたの歴史は、失敗のくり返しだ。
 個人的な人生も、
 地球上の集団的な経験も同じだ。
 狂気とは、何度も何度も同じ行動をくり返しながら、
 別の結果を期待することだよ。
 政治に霊性を求めようとするひとは
 「ほかの方法があるよ」と言おうとしている。
 その努力こそ祝福されるべきであって、
 批判されるべきではない。」

私にとっては、タイムリーな記述でした。
このことは、著者自身もあとがき(「おわりに」)に書いています。
 人類に役立つことができる方法のひとつが、
 霊性を政治の領域にもちこむことである。
 霊性と政治は一緒にすべきでないと考える人びとがいることはわかっている。
 だが、神はこの本で「政治的見解は霊性の表現だ」と言っている。
 これは真実だと思う。

共感を覚えました!
で、突然ですが。
「個別的自衛権に集団的自衛権を加えれば、抑止力が増す」
って言われて、なんで簡単に騙されちゃったり、迷ったりしちゃうんでしょ?
それこそが、平和ボケなんですっ!
さらに、ああでこうで・・・と、続くんですが、それはまた別の機会に。
何が言いたいのかというと、
いろんな場面でヘンな状況があるのを肌身で感じながら生活している日々も、
程度問題だということなんです。
「いろんな人がいるしね〜」
「ほんと不条理なことだらけだよね〜、でも、そんなもんだよね〜」
って、実質、容認するのも程度問題だと。

現状を見る時、
程度問題として酷すぎる・・・という憤りや怒りに対して、
「怒りのエネルギーはいけません、相手を強化するだけです」
的なことを書いた記事を目にすると、私はちょっとがっかりしてしまいます。
何故なら、政治の現状はこういう感じではありませんか?

これでもか、これでもか、と次々に事を突きつけてくる・・・・

これって、避け続ける限りは続いていく「サイン」ではないですか。
つまり、政治に対して私たちの側が変わらなければならないということです。
〜政治に霊性は持ち込むべきではない〜というのは、
古い感覚ではないかと強く感じるんです。20世紀までの。
誰かれ構わず、霊性を語ることはもちろんできません。
しかし、霊性の実践(スピリチュアルな生き方)を示すことは相手を選びません。
例えば、政治的に自分と同じ感覚・考え方をする人の中に、
攻撃的すぎる言動をとりがちな人もいるでしょう。
そういう人を避ける選択もありですが、共にいる選択もできるということです。
今は、後者の選択に挑戦しなさい、という時代に入っているような気がするのです。
もちろん、できると思えれば、の話ですし、個人的に選択することですが。

「怒りのエネルギーはいけません、相手を強化するだけです」
というのは真理です。
が、その真理へすがってしまう「依存」が潜んではいないだろうか?と。
自分が「怒り」を感じてしまうのが恐くて、「ストレス」を負うのが嫌で、
政治のことを遠ざけてしまったり。
結局、潜在的には気にしているのに、「怖れ」て見ぬ振りということになります。
というか、政治は気にして当たり前なんですけどね。


政治は、私たちの「命」や「生活」に強力に介入しており、
この世を生きていく上では最も影響力のあるものです。
だから、「政治的見解は霊性の表現」とも言えるわけなのですね。

「彼の神」は、新しい福音として広めるようにと、くり返しこう言います。
 わたしたちはすべて一体である。

ワンネスは、常套句ですが、重要なことは、

わたしたちはすべて一体であるが、同じではない。

ので、もうひとつ。
 わたしたちの道がすぐれているのではなく、
  ひとつの道だというに過ぎない。

その問題については、いろいろな見解はあるでしょうけど、
「何度も何度も同じ行動をくり返し・・・」は、いい加減止めて、
「ほかの方法があるよ」と。
「抑止力が・・・」は、同じ行動のくり返しを選択しているんです。
現実に起きて来たことの状況を、ちゃんとは見ずに。
思わずこんな歌を思い出してしまいます。
「♪ 時の流れを止めて 変わらない夢を見たがる者たちと 〜 」
夢、見てる人たちに巻き込まれてる場合じゃありません。

そして今や集会やデモは、昔の「戦い」のイメージではなく、
思わぬ(?)変化を続けています。
その行動を起した人たちの中には、
見えない世界からの応援を受け取っている人が少なからずいると思うんです。
もちろん、無意識のうちに。
しっかりと受け取れることもあれば、時に受け取り損ねたりもありつつ。
しかし、日本の報道の自由度ランキングは、今61位・・・。
なので、政治のニュースをテレビでちらっと観る程度では、
精神世界を意識して生きている人でもそのことには気が付かないでしょう。
もともと現実を知るには、意識的になる必要があるわけですが。

というわけで。
随分と本の感想からはズレてしまったような?
なんと、読書メモは大学ノート5ページ分にもなってしまったのでした・・・。
気づきが多かったわけで、それは折々に触れることになるかもしれません。

CM(0) / TB(0)
「神との友情〈上〉」ニール・ドナルド・ウォルシュ
〜 「後悔」に学ぶ。「罪悪感」は人を萎えさせるだけ 〜


3ヶ月くらい、全く本を読まない生活をしてました。
何故かはわかりませんが読めない・・・感じだったのです。
やっと、今月に入って「本、読めるかも?」という気が起こり、
まずは・・・と本棚にある慣れ親しんだ本の中から選んだのが、
「シルバーバーチの霊訓(一)」でした。(前々回の記事にしてますが)
それから、「よし!図書館へ行こう!」
と、本格的にやる気は出たものの、借りたい本が特になく・・・
とりあえず、なんか軽いものがいいかなあ?と思い出したのが、
「神との対話シリーズ」でした。(え?軽いのか?)
「神との対話」三部作は、8年前に読みました。
一冊ずつ、それぞれの感想を記事にしたほど読み応えがあり、
間違いなく特別に印象の深かった本です。(「緑の時のBookend」
ただ、それ以降、続きのシリーズを読もうと思ったことは一度もありませんでした。

読み始めてすぐ、この8年間の自分の変化について思いを馳せてしまいました。
いろいろなことを経験して、いろいろな本を読んで・・・

「神との対話」を読んだ時も、この「神」が一般的にイメージするところの神ではなく、
自分自身(の潜在意識)なのだろうというのは理解していました。
今は、さらにこう感じたのです。
まるの日さん的なガイドの解釈が一番ぴったりくると。
つまり、著者のガイドが「神」をマトリックスのように投影しているのではないか?
ということです。
というのも、この「神との友情」には著者の生い立ちや経歴が詳しく書かれており、
彼が子供の頃から「神」に対して特別な思いを抱えていた人だということがわかったからです。
その特別な思いは、解放されるべき思いでもあったのでした。

著者には、「神との親しい関係のなかで人生を送りたい」
「神の愛を世界に教えたい」という強い思いが子供の頃からあったのです。
しかし、その幼い子供の頃から「神」は怖れの対象でもありました。
キリスト教では、人間は原罪を持って生まれたことになってますからね・・・。
教えに対して心の奥から湧き上がる違和感を抱えたまま、
聖職者になりたいとさえ願うほどだった彼は、大人になってからも葛藤するのです。
キリスト教の様々な宗派を渡り歩いたり、他の宗教の勉強もしてみたり、
でも、結局どれもぴったりくることはなかったのでした。
そして、決定的に人生につまづき絶望した果てに、「彼の神」の声を聞いたのでした。

敬虔なカトリック教徒であったはずの著者・・・
というと、思い出した人がいます。
90年代、ルワンダで起きた大虐殺を生き延びた女性、イマキュレー・イリバギザです。
以前、感想の記事を書いてます。

「生かされて」イマキュレー・イリバギザ , スティーヴ・アーウィン

彼女もまた敬虔なカトリックでありつつ、教会や神父には違和感を持つ人でした。
ニールと決定的に違うのは、彼女の方は実に凛とした強い人だったことです。
子供の頃から神父に口答えすることもあり、
その教えと自分の感覚が違っていても迷うことがないのです。
自分の直感を信じる強さを持つ人であり、直に「神」と繋がっている人です。
彼女もまた敬虔なカトリックでありつつ、教会や神父には違和感を持つ人でした。
ニールと決定的に違うのは、彼女の方は実に凛とした強い人だったことです。
子供の頃から神父に口答えすることもあり、
その教えと自分の感覚が違っていても迷うことがないのです。
自分の直感を信じる強さを持つ人であり、直に「神」と繋がっている人です。

もともと、宗教とは絶妙の距離感(?)を持てる国で育った私からみると、
ニールの葛藤は「そこまで悩む?」なんてちょっと理解し難いものがあるのですが、
そういうもの・・・だったんでしょうね。
やはり、人はいつか、宗教、というよりも組織の縛りとは、
(精神的に)卒業していくべきものなのだと思います。

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